第六考・コムーネ

コムーネ(伊:comune)は、イタリア語で「共同体」を指す語であり、現代ではイタリアの自治体の最小単位(基礎自治体)である。また、スイスのイタリア語圏でも基礎自治体コムーネと呼ぶ(詳細はスイスの基礎自治体を参照)。──wikipediaより

 

 社会は共同体無くして成立しない。

「会社」「学級」「家庭」……その中で協力し合い生活を営んでいく。

それが太古より人間の見出した生きる道であった。

 

自分の愛読書に菅野仁先生の「友だち幻想 人と人との〈つながり〉を考える」という本がある。

 

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

 


「人間関係になんとなく疲れた」「友人は大切、なのに今の関係が息苦しい」他、現代人が形成する複雑かつ難解な共同体について易しく論述された本である。

 

現在進行形で距離の取り方など、とにかく対人に関わる何もかもが下手くそ極まりない自分にとって、この本は救いの光のようであった。

 

そのなかでも一番印象深いのは、人とのかかわり方は「親しさ」か「敵対」の二者一択ではなく、「態度保留」という中間が存在している、という点である。

最低限度の礼節は払いつつ、共存するという道を示されはっとした。

今まで人に対する態度には両極端な道しかないと半ばうんざりしていた自分にとっては目から鱗だった。

 

数年前より遥かにマシになったコミュニケーションの取り方で、自分の肩の荷も随分下りたような気がする。
以前はどうしても周りから笑いを誘って認めてもらわなくてはならない、と意固地になってアホを演じていた。
自分で自分をそんな状況に追い込んでおきながら、まるで手首を切るように神経をすり減らす日々だった。
どうしても周りから認めてもらわなくてはいけないわけでは無いし、苦しい思いをしてまで誰かを笑わせても楽しくない事に気が付けて本当によかったと思う。

 

成長したのだろうか?以前より厭世的に、より捻くれただけだと思うのだが。

まあ生きやすいなら何でもよかろう。

 

当記事を見ている方にもそのような方はいるのだろうか。

そうでなくとも、一読の価値はある。

うだるような外に出ずとも、本さえあれば人は成長できる。

 

嫌になるような熱さを忘れる方法の一つとして、自分は読書を提案したい。

第五考・アーケードゲーム

アーケードゲーム(arcade game)は、業務用ゲーム機(「アーケードゲーム機」)によるゲームの事。古くは、典型的・代表的なものとしてはピンホールであるが、電気・機械的な装置であった。コンピューターゲームの発展後は、作品数や経済規模ではそちらが大きくなっている。英語では「ペニーアーケード」あるいは「アミューズメントアーケード」と言った話がある。──Wikipediaより

狙ったのではないかと思えるほどの自分好みのネタである。

当然狙ってなどいない。

 

自分と同年代の少年少女は一度はS○G○社のゲームにお世話になっているのではなかろうか。

某昆虫じゃんけんゲームなり、某魔女コーデバトルゲームなり。

 

少し大きくなってからは某太鼓のプロフェッショナルを目指す系のゲームをビギナーなりに楽しんだりした。

 

リズムゲームを本格的に嗜むようになってから、ゲームセンターには足繁く通うようになった。

未だに下手の横好きの域を出ないが、それでいい。

人様に迷惑をかけず、なおかつ自分が楽しいのであれば、それ以上に素敵な事はないだろう。

足るを知るべきである。

ゲーマーだからというよりも、人としてあるべき姿であると思う。

 

そんな自分が最近はまりだしたのが、格闘ゲームである。

元は一対で対戦が出来たはずなのだが、故障か何かで一台欠けており、ひたすら一人でコツコツやるモードになっている。

まだまだまぐれで勝っているようなものだが、それでも勝ちは勝ちである。

昔よりは確実に上手くなっている。その事実がとてもうれしい。

 

この文を書いている今日もプレイしてきた。

今まで負けた事の無かった最終ステージ・ROUND8でコテンパンにされた。

実に悔しい。

 

前回プレイから二週間もたっていたから腕が鈍ってしまったのだろうか。

何にせよ、未だ頂の景色は遠い。

第四考・ビーンバッグ

ビーンバッグ(bean bag)は、やわらかい袋に豆や穀類などを詰めたボール。トスジャグリングなどに使われる。落としてもほとんど弾まず転がりにくいので、落としても回収しやすく練習に適しているが、変形するため、トスジャグリング以外には適さない。また、使いやすく、比較的安価なため、初心者はこのボールから始めることが多く、もっとも一般的なジャグリングボールと言える。──Wikipediaより

 当ブログのランダムな主題を見て、どのように決めているのか不思議に思った方もいる事だろう。

ここで種明かしをしよう。

 

Wikipediaにはおまかせ記事表示なる機能がある事を御存じだろうか?

自分もつい最近まで知らなかったのだが、そこをクリックするとWikipediaの膨大な項目からランダムにひとつの記事が選ばれ表示される、というものだ。

 

その機能を利用し、ランダムに表示された記事から本質を抜き取り毎度のネタにしているわけだ。

自分では思いつかないネタで書ける点は実に大きなメリットだと思っている。

 

種明かしはこのくらいにして本題に移ろう。

そんなわけで今回はビーンバッグについてである。

 

日本人ほど幼いころからビーンバックに慣れ親しんでいる民族もなかなかいないのではなかろうか。

ビーンバック、と横文字を使うから分からないだけで、実の所こいつはお手玉だろう。

 

第一線で活躍し続ける英雄たちは、大抵齢二桁にも満たない時期から自分の競技に触れ始めているわけだが、慣れ親しむことと上手くなることはまた違うように思う。
幼いころからお手玉と言う遊戯を知っていても、未だに一つもうまく手繰れない自分のような人間だってたくさんいるはずだ。

 

結局のところ、ありふれた凡人と一握の天才を分ける境目は何なのだろう。

ただ一つ分かるのは、自分は確実に前者であると言う事だけである。

第三考・X線

X線(エックスせん、英:X-ray)とは、波長が1pm-10nm程度の電磁波の事を言う。発見者であるヴィルヘルム・レントゲンの名をとって、レントゲン線と呼ばれることもある。放射線の一種である。X線撮影、回折現象を利用した結晶構造の解析などに用いられる。──Wikipediaより

思い返してみれば、自分は病気がちな子供だったように思う。

古い記憶を辿ると、大抵真っ先に思い出されるのは病院にまつわる記憶だ。

 

ここで暴露すべきではない為詳しくは語らないが、今は何ともない。

自分は健康体そのものである。

 

やはり小学校に入学するのと同時にスイミングスクールに通い始めたのがよかったのだろう。

汗をかいても涼しい。

人類が考え出した中でも屈指のレベルで、実にすばらしいスポーツだと思う。

最初は水に顔を付けることすら恐れていたが、卒業するころには個人メドレーが泳げるほどだったように記憶している。

長らく個人メドレーなんて泳いでいないが、今でも出来るだろうか。

自分が唯一誇れる水泳とは、これからも仲良くしていきたいと思う。

 

閑話休題

なんだかんだで病院に掛かりがちだった自分は、やはりX線の部屋にもよく行っていた。

独特の物々しい雰囲気に怯みながらも、マッドサイエンティストじみたカッコ良さを感じていたのを覚えている。

 

今でも少し用があって定期的に撮りに行く。

困ったことに、幼いころの憧れはまだ鳴りを潜めていないらしい。

写真を撮った後、フィルムのようなものを取り出す作業を観察するのが、毎度毎度のささやかな楽しみである。

 

第二考・マスコットキャラクター

 マスコット(フランス語:Mascotte、英語:mascot)とは、「人々に幸運をもたらすと考えられている人・動物・もの」のこと。身辺に置いて大切にする人形や、何らか団体(グループ)のシンボルとする動物などである。マスコットは「人」や「動物」だけとは限らず、「植物」であったり、「色」であったりすることもある。──Wikipediaより

 

 正直なところを言うと、マスコットと言う単語がフランス語であったことが驚きである。ただの不勉強なのだが。

 

抜粋したところを読むと

『「人々に幸運をもたらすと考えられている人・動物・もの」のこと。』

とあるから、広い意味で言えば仏像などもそれに挙げられるのだろうか。

 

そう考えると金剛力士像云々のあの凛々しく猛々しい表情も少し可愛く思えてくるのだから、全く人間の思考と言うものは大変面白いと我ながら驚かされるものである。

 

しかし原点に立ち返り考えると、自分の思考はやはりぬいぐるみなどに使われるような「マスコット」と言う言葉に引っ張られがちなことが分かる。

使い方は当然間違ってはいない。

だが知っている単語でも、調べてみると自分の視界の狭さを改めて思い知らされる。

 

自分の限界を知り、学び直す作業は楽しい。

楽しいが、その好みが何にでも適用されるわけではない自分の嗜好を見ると、やはり自分も人間だなと言う気持ちが湧いて出る。

 

ところでそんな事を考えている自分は、一体どのような存在のつもりでのたまっているのだろうか?

第一考・ブログ

ブログ(blog)は、world wide web 上のウェブページに覚え書きや論評などを記すウェブサイトである。「WebにLogする」のウェブログ(Wablog)をブログ(Blog)と略称する。執筆者はブロガー(blogger)、個別記事はブログエントリーと呼ばれる。──Wikipediaより

 

先人が「千里の道も一歩から」という諺を遺した事から伺えるように、何事も始めが肝心である。


幾ら意志があろうと、それらを始めようと動き出さなければ、結局ただの宝の持ち腐れとなってしまうのだ。

 

宝があるかどうかまでは知らないが、自分もこの状態に陥ってしまう事はままある。気を付けねばなるまい。

 

そうは言っても、一歩を踏み出せたところで、続ける意思、そして上手いペース配分が出来なければ踏破することは極めて困難であろう。

 

重度の怠惰を拗らせている自分にとってはなかなかの難問だ。趣味で書いている文章でさえいつ投げ出してしまうかわからない。

 

先人はこう言った言葉も遺している。曰く、「人間は習慣の奴隷」と。

要するにどれだけ面倒でも続けていれば、生活の一部、つまり自分を構成する一要素となる、と言う事である。

 

当ブログはそんな背景を持って開設された。詰まる所、筆者が習慣の尻の下に敷かれるまでの記録である。

見るに堪えない乱文が跋扈するかと思われるが、生暖かい目で見守っていただければ幸いだ。